関口流について

関口流は、江戸時代初期の武術家であり柔術の開祖でもある 関口弥六右衛門氏心柔心 (1598年 - 1670年)を流祖としています。
また関口流には、流祖の長男である関口八郎左右衛門氏業(1636-1716)が伝える関口本家の大関口と、流祖の三男である関口弥太郎氏暁(1640年 - 1729年)が伝える小関口が有ります。
関口流柔術 富田派 誠武館 足立道場は、関口弥太郎氏暁が伝える小関口に分類され、約400年の系譜を有する、我が国古来の伝統ある武術 の一つです。

関口流の開祖、関口弥六右衛門氏心柔心

関口弥六右衛門氏心柔心(以下、柔心という。)は、三河国長沢村(現・愛知県豊川市)で生誕しました。

代々関口家は、戦国時代の駿河国、及び遠江国の守護大名・戦国大名、今川氏の分家で、代々が宗家の今川家に仕えていましたが、桶狭間の戦い以降、今川家の没落に伴い、当主であった今川氏真との関係が悪化していきます。
その後、徳川家康の正室築山殿が関口家(瀬名氏)出身であったことから、関口家は松平氏(徳川氏)を主君と仰ぎ、柔心の父、関口氏幸は家康の嫡子である松平信康に仕えました。

柔心は、幼少の頃より武芸・組討に優れていました。
廻国修行の許可を得、林崎甚助より神夢想林崎流の抜刀術、三浦義辰より三浦流柔術を学びました。また屋根から猫が落ちるものの1回転して着地し何事もなく歩いていくのを見て開眼し、自ら屋根から落ちてみるなどの修行の末高度な受け身を極めたと云われています。
柔心の活躍で「柔(柔術)」が全国に広く認知され、これらの経験をまとめ、柔術の流派である関口新心流を開きました。
松平飛騨守、次に本多甲斐守に仕えた後、後1639年(寛永16年)に紀州徳川家の柔術指南役として、「南海の龍」と云われた徳川頼宣に仕えました。
徳川頼宣公は柔心の技をみて、「代々の藩主は関口流柔術を学ぶべし」と遺命し、以後関口家の歴代当主は「御流儀指南」をもって紀州徳川家に仕え、紀州藩の上級武士にその技を教授しました。
関口新心流は紀州藩の御流儀となり、江戸での教授などからさらに諸国に広まり、江戸時代に最も広まった柔術流派のひとつに至りました。

関口弥太郎氏暁が伝える小関口
関口弥太郎氏暁は関口新心流四代目宗家であり、1640年(寛永17年)、播磨国(現在の兵庫県南西部)で柔心の三男として生まれ、紀州徳川家に仕えました。
数寄屋奉行、郡奉行、鉄砲改役等を歴任し、剣の達人として知られ、講談や剣豪小説、またそれらを原作とした映画の中では、妻とともに仇討ちの旅に出る設定のキャラクターとしても、描かれています。

さきほど関口流は、柔心の長男である関口八郎左右衛門氏業が伝える「大関口」と、流祖の三男である関口弥太郎氏暁が伝える「小関口」が有ると述べました。
現在、大関口は「関口新心流柔術 新心館」第十三代 関口芳夫御宗家が伝承し、小関口は「関口流柔術 富田派 誠武館」第十四代 寺西弘陽御宗家が、伝承しています。

関口流柔術 富田派 誠武館 第十四代 寺西弘陽御宗家
関口弥太郎氏暁が伝える「小関口」を継ぐ第十四代 寺西弘陽御宗家は、15歳の時に関口流柔術誠武館 第十三代 富田啓之亮 先代御宗家 に入門し、20年もの期間にわたり修行されました。
また御宗家は、関口流柔術富田派のみならず、以下の流派等においても御宗家を継がれております。 

関口流柔術 富田派 第14代 宗家
日本古武道伝 南龍整体術 宗家
日本古神道伝 南龍気功術 宗家
串本気功整体院 院長
井中蛙子流手裏剣術 第3代 宗家

関口流柔術富田派(小関口)系譜略伝
一、関口弥六右衛門氏心柔心 (関口流流祖)
二、関口八郎左右衛門氏業 (柔心長男、大関口)
三、関口万右衛門氏英 (柔心次男)
四、関口弥太郎氏暁 (柔心三男、小関口)
五、三宅角右衛門宅重
六、堀惣右衛門宅政
七、津田三郎左衛門永章
八、津田三郎左衛門永久
九、熊沢百介 (岡山藩)
十、門馬伝右衞門
十一、清水秀高
十二、山野栄三郎 (岡山藩武術指南家、大阪誠武館館主)
十三、富田啓之亮 (先代宗家・誠武館館主)
十四、寺西弘陽 (現 宗家・誠武館館主)